こんにちは、おっさんです。
私たちは、生活の中で「うまくいくこと」が当たり前になっている社会に生きています。
電車は時間通りに来るのが普通。
ほんの数分でも遅れると、ついイライラしてしまいます。
レストランやホテルでは、スタッフが親切丁寧に接してくれるのが当然。
少しでも対応が悪いと「なんで?」と不満が湧いてくる。
こんな経験、誰にでもあると思います。
でも、ふと視点を変えて海外に目を向けると、少し違った風景が広がっていることに気づきます。
たとえば、私がかつて訪れたフランスのとある店。
買い物のために入店すると、店員同士が楽しそうにおしゃべり中。
「ボンジュール♪」と声をかけてくれたきり、すぐに元の談笑に戻ってしまいました。
日本じゃまず見られない光景です。
最初は戸惑いましたが、よく考えれば、こちらにとっても気が楽。
どうせフランス語もほとんど話せないし(笑)
そっとしておいてくれた方がありがたい面もありました。
さらに驚かされるのは、インドなどではバスが定刻に来ないのが当たり前という話。
ひどいときには半日遅れることもあるそうです。
それでも人々は怒らない。
「まあ、そうなものだよね」と受け止めて、のんびり過ごしたり、周囲の人とおしゃべりしたりして時間を過ごす。
そこには「誰かがなんとかしてくれる」といった依存心ではなく、「自分でどう過ごすかを決める」自主性があります。
これは日本国内でも見られるようになってきました。
たとえばセルフサービスの店。
スタッフのサービスを期待していない分、「いらっしゃいませ」がなくても不満にはなりません。
ビュッフェでも、自分で好きなものを選び、好きな量を取って、自由に食べる。
ここにも「自分の意思で動く」という感覚がしっかりあります。
一方、日本は「おもてなしの国」とも言われ、サービスの質は世界的にも高いとされています。
それは誇るべき文化ですが、あまりに“至れり尽くせり”に慣れてしまうと、ちょっとしたことで不満を感じやすくなります。
店員の対応が少し悪いだけで怒ったり、クレームを入れたり、場合によっては訴訟にまで発展することも。
でも、それって「してもらって当たり前」という意識が強すぎるからじゃないでしょうか。
便利さ、正確さ、速さが当然になりすぎると、ほんのわずかな誤差にも敏感になり、受け身の姿勢が強くなってしまう。
それよりも、「何事もうまくいかないかもしれない」という前提で考えてみたらどうでしょう。
たとえば電車が遅れても、「まあそういう日もあるさ」と受け流す。
スタッフの対応がいまいちでも、「今日はちょっと余裕がないのかな」と考える。
そうやって他人に過度な期待をせず、自分でできることを考え、行動する。
そこにこそ、本当の意味での自主性が育つんじゃないかと思うんです。
政治や社会に対して不満を持つのも分かります。
私自身、そう感じることは少なくありません。
でも、それを変えるには行動が必要です。
政治を変えたいなら選挙に行く。
社会を変えたいなら声を上げる。
もし変わらないと感じるなら、その中で自分はどう生きるかを考えて動くしかありません。
文句を言っているだけでは、現実は何一つ変わらない。
だからこそ、まずは「自分ができること」を見つけてやる。
それを“誰かにやらされる”のではなく、“自分の意思でやる”。
それが、自主性ということじゃないでしょうか。
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